伸びた髪

日常

肩まで髪が伸びた。
肩にあたる毛先が跳ねるようになった。

そろそろ髪を切ろうと思っていた頃に、鬱になった。
美容室には行けなくなり、髪はどんどん伸びた。

背中の真ん中まで髪が伸びた頃、散歩程度の外出ができるようになった。
鏡の中の自分は、オバケのようだった。
髪が無秩序に伸びるとこうなるのか、と思った。

美容室に行って、髪を切ってもらいたい。
でも、こんな風貌でオシャレな美容室に行くのが恥ずかしい。
だからといって、自分で切ると、変になって憂鬱の種を作るのが目に見えている。
鏡を見るたびにため息をついた。

そんな時に、ヘアドネーションを知った。
自分の髪を寄付すると、ウィッグにして必要な方に使っていただけるそうだ。
鬱で寝ているだけだった自分でも、人様のお役に立てるかもしれない。
50cm以上あれば、誰かのためのロングウィッグになると知った。
社会から遠ざかっていた過去を感じるこの髪にも、意味が生まれる気がした。

髪を切る部分が50cm以上になるまで伸ばすことにした。
数日ごとに長さを計って、まだかな、もうすぐかなと髪が伸びるのを待った。
髪が腰下まで伸びた時、美容室に予約の電話をした。

当日、相変わらずオバケみたいな風貌だったが、できる限り整えて出かけた。
美容室が見えてくると、店にいるキラキラとした人たちを想像し、自分との落差に、帰りたくなった。
でも、髪を切るミッションをクリアできれば、自分も誰かの役に立てる。
深呼吸をして、一歩一歩美容室に近づき、店の扉を開けた。

開口一番に、ヘアドネーションをしたいと伝えた。
美容師さんは、「え?」と言った。
長い間、人とちゃんと会話をしていないから、声のボリュームがわからない。
聞こえなかったなら申し訳ないと思い、声帯を起こすように、大きな声でもう一度言った。
美容師さんは、びっくりした顔になった。
周囲にいた別の美容師さんも振り返ってこちらを見た。
私の声のボリューム機能は狂っているのだ。恥ずかしくなった。

美容師さんは、私の髪を見て、できないと言った。

……え?
声がでなかった。
髪の先から、自分の存在が風化していくのを感じた。

美容師さんは申し訳なさそうに、一度もカラーせず、傷まないようにケアしながら育てた髪しかできないことを説明してくれた。

何もずっとヘアドネーションのために育ててきたわけじゃない。
下調べが甘かった自分のまぬけさを思い、そういえば私の人生はいつも詰めが甘い……と振り返りかけたところで、シャンプー台に連れていかれた。
すれ違う美容師さんが口々に、だいぶ切りましたね、イメチェン成功ですね、と笑顔で声をかけてくれた。
今思うと、大声でヘアドネーションを希望し、できないと告げられた一部始終を見て、気にしてくださったのだと思う。

ヘアドネーションで、誰かの役に立つことはできなかった。
でも、ヘアドネーションのためだと思えたから、美容室に来ることができた。
優しい心遣いをくれた美容師さんのおかげで、一歩、社会生活に戻れた気がする。
人に悩んで鬱になったけど、救ってくれるのも人だった。

昨日よりも人がこわくない気がする。
中島みゆきさんの『糸』が無性に聞きたくなった。

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